映画『劇場版 はいからさんが通る 前編』特報【HD】2017年11月11日(土)公開
はいからさんが通る(大和和紀 1975~1978年)は名作として現在もよく読まれている。原作が終了したのは42年前なのに、今でも評価が高いのは素晴らしい事だ。モーツァルトの作品と同じで普遍的が価値があって200年以上経っても読まれているかも。
はいからさんが通るは大正時代の女性である花村紅緒のハイカラな生き方と恋を描くラブロマンス。動画のとおり、大正時代としては紅緒は見た目も中身もハイカラな女性。着流しの服が女性の主流の中で、当時としてはまだ普及していなかった女子教育を受けていた女学生の海老茶色の袴などの姿や髪型は当時としてはハイカラだし、男尊女卑や家同士で決めた結婚が当たり前の時代に男女平等や好きな人と結婚するという進歩的な考えを持つ花村紅緒は真にハイカラ。ただ、ロマンスを描くのが目的なので仕事のために独身を貫くという考えは描けなかったようだ。
こういうウーマンリブの考えは1960年代後半頃に盛んになったが、大正7年(1918年)なら随分進歩的な考えかもしれない。そういう考え方が普遍的な価値があるので長く読まれるのかもしれない。
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日本国憲法
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
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現在では当たり前となった事なので憲法24条はほとんど文言通りにしか運用されていないかもしれない。フェミニストのベアテ氏が憲法24条の草案を作り可決され現在の憲法24条となった。憲法24条など現在では法の下の平等を定めた憲法14条だけあれば十分かもしれないが、当時としてはこんな規定を作らないと婚姻や男女平等を実現できなかったのかもしれない。
赤毛のアンの作者のモンゴメリも小説家になるための教育に対する理解がなくて苦労した。はいからさんが通るは少女漫画なのでロマンスを描かないといけないため、独身という方向は描かれなかった。若草物語の作者のルイザ・メイ・オルコットは生涯独身。
こういう男女平等とか両性の基本的合意に基づく婚姻などという考えは将来的には消えるかもしれない。2013年に『米女性200人に1人が「処女懐胎」を告白、調査』という驚くべきニュースが報道された。こういうニュースがどこまで本当かわからない。他にも乱婚が当たり前のゴリラと一夫一妻制の人間では精子の活力が大きく違って、現代のような一夫一妻制に基づく恋愛、結婚観を続けていくと破綻が生じる危険もある。だから近い将来に性別というものさえなくなってしまうとか人工授精などの科学技術を用いる方法が当たり前の時代がくるかもしれない。
男女平等とか両性の基本的合意に基づく婚姻などという考えが必要なく、いかに他の人権や科学、文化を育てていくかが重要な時代がくるかもしれない。こういう考え方は無意味かもしれないし極めて進歩的かもしれないが、現代においては理解されないだろう。
大正時代は上の動画のように男女別学が当たり前で、現在のように共学が主流という考えも現代では変化しつつあるかもしれない。例えば数学に対する取り組み方や考え方が男女で異なり、別学で教えた方が合理的という指摘がある。男女平等から別学など後進的で共学が当たり前などという考えが変化し別学こそ進歩的という考えになるかもしれない。
婚姻に対する考え方も婚姻とは恋愛感情を充足させる手段ではなくお互いを助け合って幸福になったり子孫を残すための手段であって、適切な相手を見つけられれば自由恋愛なのか家同士の決定婚姻なのかは余り重要でなく、恋愛感情など後からついてくるし、芽生えてもどの道長続きしないのだから自由恋愛に必ずしもこだわる必要はないという主張もある。現代においては法律婚をしてない人たちも多く、婚姻は子孫を残すための手段でさえない側面がある。
これが戦国時代であれば婚姻は政略や生きる残るための手段だった。例えば淀殿は母の仇である秀吉と結婚し二人の子を儲け、豊臣家と運命を共にした。秀吉と北政所は恋愛結婚だったらしいが、基本的に自由恋愛という考えなどない。
たぶんどの時代でも共通している事は婚姻とは幸福に生きるための手段ということだ。だから婚姻の考え方は必ずしも自由恋愛とは限らないし、時代や社会通念によって大きく変わるものだ。だから私は憲法24条のような規定を削除して憲法14条のみにし、もっと柔軟な運用ができる方がいいかもしれないと思った事もある。
はいからさんが通るの考えはある程度長く通用していくかもしれないが、社会通念が変化すると読まれなくなるかもしれない。
南野陽子 はいからさんが通る(1987年11月25日)
はいからさんが通るは本当に人気があるようで、1987年に先日紹介した人気アイドル南野陽子が主演の映画が公開され、南野陽子が主題歌を歌ってヒットした。現在も宝塚歌劇で公演されている(写し)。1979年、1985年、2002年にテレビドラマ化。 何度もドラマ、劇、アニメ化、映画化などで公開されている。本当に人気がありますね。
私は一番上の動画の紅緒が忍と出会うシーンは他の作品でも見た事がある。
などと宣伝されている。
私の知る他の作品だと紅花じゃなく他の花の名前の人がお相手と会って紅緒と同じ様な顔してましたが、大キライという感じではなかったですね。らんま1/2だと風呂場で出会うシーンが別な漫画で使われたり、有名なシーンは繰り返し描かれるのかも。
赤毛のアンだと大キライから大好きに。こういうのをツンデレという。100年以上前から使われている設定。そんなに有効なの?
「いつだって 大キライは恋のはじまり。」などと宣伝されているが、現実は全然違います。一例として私の経験を話すと、みなさん御存知のとおり私は研究不正の追究で有名でOの事件のときなどは社会的影響も大きかったためネット上では一部から嫌われ酷かったですね。しつこい人は異常にしつこい!きっと心に深く刻み込まれて、ずっと離れないのだろう。そういうのは好きと同じ部分はあるのかもしれないが・・・。
「いつだって 大キライは恋のはじまり。」などと強調される。しかし、現実は好意ではなく恨みがやってくる。そのために仲良くなりたいと思ってるなら間違っても研究不正の追究とか12歳頃に女の子の髪の毛を引っ張ってからかうなどのいたずらはしないように!(笑)
不正行為やモラルの欠如者を正すのは正しい事であり、その方がその人や社会のためだというのもあるかもしれませんがね。
私が感銘を受けた言葉の中に
「大切に思うのと大切にするというのは似ているようで違う。」(ガンダムX)
というのがあります。巨人の星で飛雄馬が親友の伴に対して、プロとしての実力を上げるためにしごくシーンがあり、プロの友情表現として描かれ、そういうのも上の言葉の一例なのかも。
研究不正の追究をやってコメントとかメールとかネットの反応をみると、まー社会的な改善とか、何かしらのメリットを持てない人はやめた方がいいと思いますね。私は最初の報道以外の記事は例えばOの事件などイニシャルに変更するなどしてますが、どこまで改善の影響が出ているのかよくわからない。
「大概の問題はコーヒー一杯飲んでいる間に心の中で解決するものだ。あとはそれを実行できるかどうかだ。」(ガンダムX)
この言葉もいい言葉だ。
漫画やアニメもなかなか捨てたもんじゃありませんね。