ディオバン事件は2013年に発覚した日本最大の臨床研究不正事件で日本の臨床研究に対する信頼を大きく失墜させ、製薬会社と医師、病院、研究機関との癒着、臨床研究に対する制度の甘さ、日本高血圧学会の対応等が問題視された。
この事件はディオバン(一般名 バルサルタン)というノバルティス社が開発した看板商品である降圧剤の臨床研究を行ったJikei Heart Study(東京慈恵会医大、代表者 望月正武)、Kyoto Heart Study(京都府立医科大学、代表者 松原弘明)、SMART(滋賀医大、代表者 柏木厚典)、VART(千葉大学、代表者 小室一成)、Nagoya Heart Study(名古屋大学、代表者 室原豊明)の全てにノバルティスファーマ社社員の白橋伸雄が統計解析者として関与し、論文では大阪市立大学の肩書だけ示して利益相反を隠蔽した(関連1、関連2)。
この事件の首謀者はノバルティスファーマー社で不正が起きる何年も前からディオバンをブロックバスターにするための不正な計画を実行していた。日本は臨床研究の規制が甘い事や統計解析の専門家が少ない事に目をつけ、ディオバンが他の降圧剤より有利な科学的成果を出させるためにいろいろと暗躍した。例えばノ社の統計解析の専門家の白橋伸雄を試験の何年も前から大阪市立大学に非常勤講師として潜り込ませ、紹介した人物には奨学奨励金を渡した。無論、将来的に白橋を自社商品の臨床研究に参加させ、利益相反を隠すための準備である。
さらにノ社はお金を出せば都合のいい結果を出してくれそうな研究者や医師を選んで厚遇し、大規模臨床研究を行えば大きな成果になると名誉欲を煽ってディオバンに有利な成果を出させようとした。そのための標的にされたのが松原弘明や小室一成など日本高血圧学会の幹部たちだ[1]。日本の医学研究は企業からの奨学奨励金が不可欠で、企業に不利な成果を出せないとか、奨励金が医局への通行料みたいなもので、払わないと薬がボイコットされかねず、医師から支払いを求められる事もあると報じられた。こういう研究費の提供元を企業でなく公的機関にすべきでないかという意見もあったが実現していない。日本医学会だったか、どこかの機関でディオバン事件が起きた時に奨学奨励金は不適切ではないと公式判断されたと思うが、実質的な賄賂として機能している側面は否定できない。
そのような賄賂が機能して臨床研究ではディオバンに有利な成果が出された。他の降圧剤に比べて脳卒中や狭心症のリスクを下げる特別な薬効があるという論文が一流誌であるランセット等で発表され、ノ社は研究者たちにお金を渡して座談会を開かせてディオバンを褒めちぎらせ、その事を日経メディカルが掲載し宣伝。MRたちが論文成果を医師や病院に宣伝してディオバンを売り込んだ。そうした営業の中心的人物はノ社の営業責任者だった藤井幸子、原田寿瑞、青野吉晃という人たちで、おそらく一連の計画に関与していたと思う。現在では白橋伸雄や医師が改ざんに関与した事が発覚したが、特に白橋が自発的に改ざんを実行したのは少し不自然だ。
ノ社、医師・研究者、医療専門誌の三位一体によるディオバンの営業戦略は成功し、年間1000億円、総額で1兆2千億円以上の売り上げを達成し、ディオバンは日本で最も売れる薬の代表となった。降圧効果は確かだが、脳卒中や狭心症のリスクを下げる特別な薬効があるという嘘の効果に騙されてディオバンを使ってしまって薬代を騙し取られ、罹患せずに済んだ脳卒中や狭心症にかかってしまった人が出たのも否定できない。ディオバン臨床研究不正は被害総額、人の生命や健康に危険を与えた点で非常に悪質な事件。今でもノ社が売り上げのお金を一部返還したという事は確認できない。会社の信用失墜は大きかったかもしれないが、利益を考えれば罰と利益が全然釣り合っていない。
この事件は不正がもっと早く発覚していれば被害をもっと防げた。Kyoto Heart Studyの論文が発表された直後から学界では疑義が出されていた。2009年のヨーロッパ心臓病学会ではKyoto Heart Studyの論文の信憑性が乏しかっためか黙殺され、スイスの高血圧の専門家が『私の母親には投与したくないが、妻の母親になら使う』と皮肉ったという。2012年4月14日にランセットのCorrespondenceで京大の由井芳樹医師がJikei, Kyoto, VARTの平均血圧値と標準偏差が異常に揃っていることやJikei Heart StudyとKyoto Heart Studyにおける狭心症に関するバルサルタンの重要な有効性は他のARBの試験や日常の診療でわかったものとは異なると指摘した。しかし、当事者たちはこの指摘を無視して嵐が過ぎるのを待つ事にした。関係者は慈恵会医大は不正を認めたと判断したらしい。研究者には説明責任があるが、不都合な事は無視すれば忘れ去られ解決すると考える日本の研究者の悪さが出た。当事者は無視でうまくいくと思っていたかもしれないが、由井の告発で毎日新聞の河内敏康氏と八田浩輔氏らがこの問題の取材を始め、後の不正改善に繋がっていった。
次に動きがあったのは東大病院の興梠貴英医師がKyoto Heart Studyの論文データの不適切さに気づき日本循環器学会に通報してからだ。循環器学会は松原弘明に説明を求め、データの集計間違いと説明された。松原は訂正で済ませようとしたが学会は納得せず撤回が決まったという。循環器学会は2012年12月末に京都府立医大に告発したが、わずか1ヶ月の予備調査で不正なしと結論された。循環器学会は納得せず再度の調査を要請した。後に最初の調査は松原の元研究仲間を含む教授3名が実施したお手盛り予備調査だった事が判明した。3名の教授は単純ミスと主張した松原弘明の弁明を鵜呑みにして、不正なしと結論しただけだった。研究機関にとって不正が不都合なので被告発者の過失の主張を鵜呑みにして、それを調査結果としただけの調査は珍しくない。改善策としてORIを作る事などを多くの人たちが主張しているが、現在も実現していない。
論文撤回はウォッチャーの間で知られていて、基礎研究の方でも不正疑義があった松原弘明がディオバン関係でも不正を行ったのかと疑義を抱いていた。2013年2月6日にKyoto Heart Studyの論文撤回を毎日新聞の河内氏と八田氏がスクープしてから事態が大きく進展した。これから一気に研究不正があったという疑惑が世間で広まり、上で述べた医師・大学病院とノ社の癒着などが世間で問題視された。京都府立医大病院は「市民からノ社との癒着を疑われかねず、同社に抗議の意を示した」としてノ社の医薬品を原則として取引停止にすると発表した。さらにフライデーの追究で上で述べた日本高血圧学会幹部とノ社の癒着や藤井幸子等の暗躍が暴露される事になった。この事件は研究者や医師の疑義指摘だけでなく、毎日新聞やフライデーの追究が解決に大きな貢献をした。河内氏と八田氏は2013年の第2回日本医学ジャーナリスト協会賞で新聞部門の大賞を受賞した。
京都府立医大はディオバン事件の責任で松原弘明を辞職させ、別件の基礎研究の不正で懲戒解雇相当とした。不正論文を根拠の一つとして急性心筋梗塞の患者に患者自身の幹細胞を移植する手術をした事が人体実験と批判された。松原弘明は倫理意識が欠如していて不正を常態的に繰り返していた。京都府立医大の不正発覚を契機に他の機関でも調査が始まり、Kyoto とJikeiのデータ操作が公式認定され、SMART、VARTはデータ操作の可能性が公式認定され、多くの論文が撤回された。不正が認定されなかったのはNagoyaだけだった。VARTの責任者だった小室一成は千葉大からの2度の論文撤回勧告を無視し、調査に対して虚偽説明し、千葉大学から公式に東大への懲戒処分の要請が行われたが、東大は現在まで無視している。VARTのサブ解析論文は強制撤回された。
この事件は調査で関係者が全員改ざんを否定したので、厚生労働省の検討委員会等で実行者が問題とされた。改ざん実行者が特定できなかった原因は任意調査に限界があった事で、STAP細胞事件でES細胞混入者の特定ができなかった事もそれが原因の一つだった。薬害オンブズパースンや厚労省が誇大広告の薬事法違反で東京地検に刑事告発し特捜の強制捜査が始まった。日本で研究不正を理由に刑事責任が追及されたのは本件が唯一の例。捜査の結果、かねてから改ざん実行者として有力視されていた白橋伸雄が逮捕・起訴された。特捜はUSBメモリーを特殊な技術を使ってデータ復旧し論文のデータの書き換えを示す証拠としておさえた。ノ社も法人として起訴された(関連)。また、最近になって男性医師がディオバンに有利になるように虚偽のデータを報告していた事が判明した。人事で優遇してほしかったという。大学の調査では医師、研究者側の不正実行者は判明せず調査の限界を示す結果となった。米国等のように強制調査権を持つ公的調査機関を作った方がいいという意見はあるが、現在まで実現していない。
また、この事件では奨学奨励金等が賄賂として機能したため金の流れを把握する事が重要だったが、金の流れに関して文科省等が問題を研究機関に丸投げしてしまった。この問題に限らず、監督省庁が問題を丸投げして主体的に行動しようとしない事が不正改善の支障になっている事は前に述べた。それも改善する必要がある。
この事件を契機にCASE-J、J-ADNI、SIGN試験などの臨床研究で疑義が指摘され、調査が行われた。企業と研究者、研究機関との癒着を原因とする研究不正の問題は今後も続いていくかもしれない。私はいろいろ改善策を前から提言しているが、今後実現し研究公正に役立ってほしいと思う。
参考
[1]松原弘明や小室一成には基礎研究でも不正又はその疑義があった。自分の利益のためには不正も構わないと考える人物なら、金を出せば有利な結果を出すように行動してもおかしくない。日本高血圧学会の理事たちに別件の研究不正疑義がよく見つかったのは無関係ではないかもしれない。